馬醉木の歴史


百周年のあいさつ
岡田 貞峰 氏

〜水原 秋桜子先生の思い出を語る〜

馬醉木俳句会の歴史

【概要】

1918年(大正7年)、佐々木綾華らによって『破魔弓』(はまゆみ)として創刊され、帝大俳句会を中心に同人を集めたが、1926年(大正15年)に、創刊後に同人に加わった水原秋櫻子が改題を提起し、1928年(昭和3年)7月号より『馬醉木』となった。改題時の同人は、水原秋櫻子、増田手古奈、日野草城、佐藤眉峰、山口青邨富安風生、大岡龍男、佐々木綾華であった。
秋櫻子をはじめ、当初のメンバーは『ホトトギス』の流れを汲んでいたが、やがて秋櫻子を中心に、『馬醉木』は独立した俳句雑誌としての道を進むことになった。
2007年には1000号に達し、記念号が刊行された。
1981年に秋櫻子が没した後、『馬醉木』の主宰は長男の水原春郎1984年から引き継いだ。
現在は德田千鶴子主宰のもとに結集して学んでいる。


水原秋櫻子


東京府生。東京帝国大学卒。家業の医科病院を経営。俳句は松根東洋城、のち高浜虚子に師事。山口誓子、阿波野青畝、高野素十とともに〈四S〉時代を築いた。昭和13年『馬酔木』を主宰。やがて『ホトトギス』を離れ、豊かな人間感情表現を俳句に託した。句集に『葛飾』『新樹』『秋苑』『岩礁』『芦刈』『残鐘』『帰心』などがある。


高浜虚子の提唱する〈客観写生〉の姿勢に飽き足らなくなった秋櫻子は『ホトトギス』を離脱し、新興俳句運動の流れを起こしていく。守旧の『ホトトギス』派と対立した『馬酔木』には山口誓子や石田波郷、加藤楸邨、橋本多佳子らが合流して一大勢力となっていくのであった。
 「客観」ではなく「主観」を第一として、高浜虚子に叛旗をひるがえした勇気の人水原秋櫻子。自然の色調を捉えた句は、みずみずしい光のほとばしりが感じられ、その強烈な美意識を持った俳人の姿にはつねに気品があった